7月11日(土)中央公民館にて開催されました、東田直樹氏講演会に行ってきました。
整理券のほとんどが配布開始日の午前中に無くなるという関心の高い講演会だけあり、また当日は急きょ、館内別室での中継放送も行われるとあって玄関前は受付時間前から沢山の人でした。
会場に入って間もなく、直樹さんの姿を見ることができました。彼は会場のホールを思うがままに動き回ります。私の横の通路を風のように走り抜けていきました。
ステージの幕をめくってみたり、と思えばあっという間にホールを飛び出していく。
飾ることのないその姿を目にして、
「あ、直樹さんに会えた・・・」
と純粋に感じました。
その行動は後で知ったのですが、どうやら”探検”だったようです。
(私の子供も慣れない場所に行くとあちこち探り周ります。最初に行くのは決まって「トイレ」ですが(;'∀'))
講演では初め、幼少の頃の感覚や想い、成長していく中で抱える葛藤と挫折の話を独特な口調で話してくださいました。
~~~直樹さんは会話をすることが困難ですが、歌うことが大好き!カラオケにもよく行くそうです。講演では独特なテンポをつけることで「話す」ことができるのだそう。歌が好きな直樹さんなりの工夫なのだと感じました。~~~
両親の話に移るところではしばらく間が空き、「明日お父さん誕生日!」と発せられました。明日はお父様の誕生日で家族そろって外食の予定があるそうです。講演の間、こうして何かを思い出してはお母様と掛け合う姿を見るたびに会場は優しい笑い声に包まれました。
直樹さんの本を読んだことがある方はご存知かと思いますが、彼の生活には常に”家族”があります。家族との何気ない日常は彼にとっての原動力であり支えなのでしょう。
家族に向けて直樹さんは、子どもは知らん顔しているかもしれないけど、気持ちをまっすぐに伝えてほしいと述べています。
やはり家庭は子供にとってオアシスでなければ!と再確認です。
~~~直樹さんは話の最中、しきりに汗を拭きます。途中、ステージ袖の気になる看板に行ってみたり、突然歩き出してはジャンプしたり。そして間もなく席に戻り、話を再開するのです。お母様は、長時間話すのは直樹さんにとってとても大変な作業、と話しておりました。講演の間、直樹さんの隣に座って呼吸を合わせるように頷き、時に腕に触れそっと声をかける姿が印象的でした~~~
お母様である美紀さんのお話はポインティングにたどり着くまでのご苦労や直樹さんを育てる時の想いが詰まったものでした。
自閉症という障害と向き合い大変な思いを繰り返しながらも、直樹さんが何を考え、どのようなことを感じ、そしてどのような人生を送りたいと願っているのかを知ろうとし、可能性を信じて歩んできた美紀さんの姿勢は、これからの自分の道しるべとなるものです。
最後に、直樹さんが講演の中で話した言葉を一つ。
「自閉症者に必要なのは”やさしいまなざしと、ゆとり”ではないかと考える。」
まずこの鶴岡から、やさしいまなざしとゆとりある地域になっていきますように・・・。
筆)naka
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ume (金曜日, 24 7月 2015 23:22)
仕事で聞きに行けなくて本当に残念でした。
たくさんの人が東田さんやお母さんの生の声、お話しを聞きたくて集まったとのこと。じかにお話を聞けた方たちが本当にうらやましいです。
東北初!だったのですか???鶴岡、すごいですね\(^o^)/
できれば、これを御縁に、2回目、3回目の機会を作ってもらって、もっともっと多くの人に知ってほしい、考えてほしい内容だったのではないかと思います。
特に思ったのは、福祉関係ばかりではなく、たくさんの教育関係の方々に聞いてほしかったな…ということ。現場の先生方一人一人の意識が変わるんじゃないかな??
そんな風に思いました。
naka (日曜日, 26 7月 2015 18:15)
umeさま
当日は残念でしたね。
本当に元気付けられる講演でした。
実際に目にするポインティングから、その言葉一つひとつが直樹さんの思いだと確信しましたよ。
そして、私たちがずっと見てきた、子どもの苦しんでいることの1つである″見た目と内情のギャップ″を証明してもらったようでした。
お母様の美紀さんの話も、勇気付けられるもので、特に印象的だったのは、子どもの思いにいかに耳を傾けるかが大切。例え子どもが話せなくても、何かサインは出してくれる。
こうかな?ああかな?とか、こう思うけどどうかな?とか、聞き方も沢山あるから。
決して決めつけないで。と。
決めつけないで、というフレーズは直樹さん、美紀さんから何度か聞かれました。
自閉症だから、と見方、やり方をマニュアル化することなく、その人の頑張れる環境を作ってほしいんだと。
本当に教育現場にいる方々にこそ来てほしい講演会でしたよ。
直樹さん、旅が好きだそうです。
鶴岡に来れたこと、日本海が見れたことをとても喜ばれていました。